人は、食べなければいけないし、食べるために働き、そして毎日を繰り返す。そしてだんだんと、薄れていかんと思いつつも、時代の流れは早くて、そうしたことを繰り返しながら、結局は何千年というような、時間を超えてきたのでしょう。そうして、今という時代を知る。それは、何回も、何回も繰り返された歴史の中で、この地球上で、本当に偶然に、ここにいて。
ひとり一人、僕にも、その過程の中で、自分なりに見つけてきた、色々な出来事がありました。例えば、ある朝、目覚めると、そこは病室で、気付けば、何日も経っていたような出来事も。いや、こんな話、いくらでもあるから。ただ、そんな時に思うのは、まるで、昨日とは見える世界は変わっていて、おそらく僕がいなくても、普通に世界は回っていくし、ずっと小さく考えれば、僕がいま、ここにいる、この場所も、それほど影響もないのだろう。
別の世界に迷い込んでしまったような感覚は、命が削れていく瞬間を、いつものように、会社に行き、仕事をして、ふと気がつくと、もう、夕方になっていて、仕事の内容とか、同僚や部下、上司との会話とか、いちいち、思い出すのも面倒くさくなる毎日に感じるようになった。それからというもの、どんどん、自分の名前は、自分の名前ではなくて、社会とか、会社が決めた名前。
つまり、歯車でしかないんだと思ったりするようなると、それならそれでいいかと思う人もいて、別に気にする事もなく、日々を過ごす。けれど、そんなことに苛立ちを隠せず、だれかに八つ当たりしながら、まるで自分に向けているような感情を、行き場もなく、方法も分からず、ずっと彷徨うような感覚。耐えられないと、シャワーを浴びながら、噎び泣き、明日を嫌がる人もいるのだろう。
でも、それでも、今日がある限り、そう、この時、今も、生き続けなければならないのだけれど、どうせ、いつかは平等に。僕は、知らなくてよい事ばかり見てきてしまったから、終着駅まで、考えなくていい事が分かるようになっていた。学びは、大切というけれど、一生の中で、知らなくていい事はたくさんあって、それこそ、誰かの人生を垣間見るような、余計な情報など必要なくて、只々、1人でいたい人、一緒にいたい人、何でもいい、自分の生き方を守れれば、そこに必要な知識と知恵さえあれば、他に何が必要といえるのだろう。
だから、もし、あなたが、幸せに生きたいとか、そのために何かを学びたいなら、あなた自身が、何を知りたいのか、小さな頃、何になりたかったのかとか、楽しいこと、知るべきことで芽生える笑顔とか、そんなことを考える毎日のほうが素敵だと思えるのです。
そうすれば、きっと、あなたにとって見える世界はきっと変わって、どんな答えも、上を向いて歩く元気をくれる。人生には、必ず意味があるとか、そういうきれい事はたくさん見てきた。だから、信じるとか、信じないとか、そういうモノはどうでも良くて、自分が思う、本当に笑顔になれることが何なのか、それだけを知っておけば、いいのだと思うのです。