小さかったの頃の僕には、本当は対して長さが無かったかもしれない木の枝、その先には、陽が入る縁側に近い、座敷のタンスから転がっていたミシン糸をくくりつけて、台所へ向かい、何か、魚のエサになりそうなモノを適当に見つけ、すぐそばに流れている、深緑色の草で覆い茂った小川のすぐ近くにあった、たまりへ釣り糸とエサを放り投げる。自分で食べるものを手に入れて、褒めてもらおうと。
釣り針がないので当然のことですが、魚のエサと糸に付けたモノは、ただ食べられて無くなり、夕方、色々な虫にかまれては、1日の冒険で収穫がゼロだった僕に、暖かく、立ち上る湯気。美味しいご飯の香りを感じとりながら、横にある菓子を手にとり、御飯の前に、釣りで空いた腹を満たして眠りにつくのです。
起きる頃には、皆はもう御飯を食べ終わっていて、僕の前には少し冷たくなってしまった御飯がそのまま置いてあり、「もう熱くないよ。」と、優しい言葉をかけてくれる人がいて、お腹がいっぱいになった僕は、またすぐに横になり、なんとなくテレビを眺めているうちに、また眠りにつくのです。
小さかった頃、このような記憶が、大人になった今、自由気ままに過ぎていく時間に積み重なった思い出が、自分だけの大切な映画として残って、これは、誰にも言う必要のない、でも、何か、心が辛いときに、最後に助けてくれる素敵な記憶という作品になると思うのです。
最初に書いた文章、とても、どうでもよい文章でしょう?、でも、それで良いのです。誰もが持っている大切な記憶や思い出は、文章で表現するにはあまりに複雑で、けれど、自分だけが細かく思い出せる。だから、読む人にとってどうでも良いことでも、全く影響はないのです。
「子供だった頃、大雪の日があって…」、この文章や言葉の中には、皆、それぞれが持っている大きな、壮大な舞台。そんな設定をしながら話をしていると思うのです。だから、価値観の違いとか、言葉のすれ違い、こんなモノはあって当然で、むしろ、余りに気にする必要なんかないでしょう。
「仕事ではそうはいかない。」それもわかりますし、それで良いと思います。けれども意思を疎通するうえで、互いの立場や情緒が、必要な情景や伝わる内容を変えてしまいますから。色々なツールがどれだけ出てきても、人が使う以上、その事を可視化していくだけで、結局は統計的に、多種多様な予測で判断されていくというだけなのです。
そういうものを否定してはいません。けれど、私が言いたいのは、人の生きてきた、それらの、1つ1つの人生、この大切さ、記憶、そこまでを管理するということが出来ない。だから、ディスプレイを通じて見えているものが、真実かどうかは、結局は分からないと思っているのです。
「この人のためだったら」、「これは、すごく大事なモノ」、「これがないと生きていけない」、人それぞれに、そんなような言葉で括れることがあって、その延長線上に言葉は、その出来事に生きていると思えるのです。
時代と共に、「こうえ」があったような日本の家屋、身の回りにあるもの、働き方など、多くのことが変化していきます。だから全て、より多くの人の価値観が重なり合って、もっと複雑になり、それらのすれ違いを受け入れながら過ごしていくということ、これ自体は、どれだけの未来を考えても変わらないと。また、それも1つの価値観ということです。