仲は良かったと。それはそれは、上手くいかない私の話を聞くと喜ぶそうです。「まったく、ほら、言ったとおりだろ。」吹き溜まりの数は増え続けていて、今年も変わらず、新しくできているようです。いや、常にそちらとは真逆にいないと、次には自分が新しい標的になるのです。いえ、それならまだ良いですね。足踏みの端で、切れ落ち流れていく枯れ葉になりますから。
浮くのにも難しい形になってしまうと、落ち葉はやり直しが利きません。枝から離れ、根の側に落ち、その場所では、もう、与えられることはないでしょう。そんな場所はどこにでもあるのです。
こんなことは、誰もがもっている価値観で、何とでも好き放題に言えます。でも、それで良いのです。言葉とは、そうして使われていくモノですから。でも、「自分は何と言われているのか…」そんなことは聞かないほうが良いでしょう。どんなに綺麗な言葉に代えても、伝わり方は色々とありますから、そこに強く根付いているそのものはなくなりません。
言葉は繰り返され、「だから言ったんだ。」、「あの時、言ったとおりになっただろ?」と、言葉として出てくる記憶と情景は面白くて、いくらでも違う形で、言葉は変える事ができるんです。そこに、もうひと押しすれば、人が覚えていることなんて、何気ない雑談から生まれる小説のような小話なんです。そう、すぐに書き変わっていくのです。
さて、息継ぎも前置きもなしに書き綴り、しかしながら、これもまた小説なのです。語源を辿れば「戯言」も文章になって、短くも長くもあり、何か、意味を残して書かれていくのでしょう。
虚構で綴りながら、事実のように出来事を書く事は、とても大事な事だと思うんです。それは、書いているうちは思い出のように腐ったようで、気持ち悪くなって思考を巡ることもあるでしょう。しかし、そうして得られる知見もありますから。これは、日記を書くのと、さして変わらないのです。
つまり、この文章は事実であろうが虚構であろうが、それは、どうでも良いと思うのです。
記憶は、誰かに盗られたりはしませんから、こうやって文章で形を変えて、記憶の片隅に仕舞う作業をすることだって出来るのです。だから、文章を書くというのは良いことなのだと、そんなことを簡単に言っているのかもしれません。
さて、何か物語のタネになる構成を描いて、多くの人に向けた口当たりの良い物語を考え、文章を書くのも良いでしょう。けれど、私には向いていない書き方ということは明らかで、自分でよく分かっているのです。とはいえ、何もないところから作る事はとても面倒なので「ただ、やらないだけ。」こう伝えるだけで済むことです。
最近は、ドブ川に流れる色々なものが、簡単に見えないような場所で塞がれるようになり、それは、他人の痛みなんてわからないのと一緒で、見た目だけキレイに見える時間を過ごせるような世界に変わりました。
「それなら、それでいい。」と言うのは簡単で、それは、自分が身を焦がして多くの苦悩を抱えてきたことなんて、誰も知る由がないのと一緒です。知らないほうが幸せに生きられることが多い世の中になったなんて、誰に本気で言えるのでしょう。いや、それすら欺瞞であるのかもしれないのです。
本当の事なんて分かりません。その人が感じたことは、全て真実なのですから。堅苦しい事を言っているのではありません。大事なのは、自分や他人が感じたことが事実という事だけの話で。「人のことなんてどうでもよい」というのが、心の片隅、どこかに必ずあるんです。
未来に向かう事は嫌いではありません。けれど、続けたいのかどうかと言われると、そんなこと、好きかどうかも分かりません。ときに、過ぎていく時間があまりに恐ろしい時。そんな情動で満たされているときだってあると思うのです。
そうするとね。この文章の最初に書いたんです。誰かが自分の悪口を言っているかもしれないって。そんなこと、どうでもよいことなんです。誰かと上手く話すためには、必要な犠牲なんだと。それくらいのことです。明日の自分が大事なんだと。本当にそれくらいのことなのです。
そんなだから、真実を抱えていたまま、もっと苦しいでしょう。だから、フィクションという世界に浸って、そこで過ごす時間、これはもう、ずっとそのままだって良いと思うのです。明日から変わろうなんて大変な事を考える必要もありません。
自分では、どうしようもないことが多くなりすぎた世の中になった。それだけのことなのです。