生涯の中で、「待つ。」という、誰かに時間を委ねる経験が、そして、その行動は、僕も経験がありますが、思い思い、しかし、これも、待ち人をまち、それは、時の浪費ではなく、退屈などしないですし、その内容によっては、その待つという時間そのものに、心が穏やかになるものです。
良いか悪いのか、これは、当然に人それぞれで、当事者にしか分からない事なので、誰も知るよしがないのですが、でも、やはり、待っている時を、そわそわと、まだ来ないのかと、怒りをまえに過ごすのと、わくわくと、口を少しすぼませ、下唇を軽くかむように、今日は素晴らしい日と、思うのでは、足り得る人が欲しがる「幸せ」を受け取る、心の柔らかさというか、そんな、何かが違うと思うのです。
こんな事は、結局、ほとんどの人にとっては、どうでも良いと思われることでして、ただ、こんなふうに、何気なく過ごしている日々が、実は、そんな価値のあるもので、どんな意味があるのか、そんなことを考えることが、自分らしくというか、その1日に意味を持たせてくれて、過ぎていく毎日を、少しだけ、豊かにしてくれると思うのです。
そんなちょっとした、どうでも良い事に、気がつかない人がいて、それは全然良いのですが、時の流れ、この感じる長さや時間は、人生において、どんな違いがうまれるのでしょう。たまに、そんなことをふと思うと、過ごしてきた半分くらいの人生が、とてもあっという間で、もう、戻ることは出来ないので、少し寂しい気もするのです。
人生の折り返し地点を過ぎる頃になると、今まで生きてきて、本当にいろいろなことがあって、それに、只々、考えさせられることがあって、その時の自分を知るために、誰かの経験を、写真や動画にして、記録をするのかなと。ほとんどは、裏切られたり、騙されたり、振り回されて、自分ではどうにもならない時間を過ごしてきて、おそらく、いや、僕が話を聞く限りですが、ほとんどの方はそんなようなものらしく。
だから、自分が、今生きている時間を、大切にしようと。ありきたりすぎる言葉が、すごく重く、意味をもち、価値を持つのだなと思うのです。しかしながら、自分の人生を良くしようと努力しても、ほとんどの場合、それは中々に、叶うことではないと。そんな現実を知ることもありまして、そして、他人の幸せを願うだけでなく、実現させて、そして、その人が次へ運ぶ。その巡りがはじめて自分に返ってくるとき。そんなこと、言うほど簡単ではないし、そんなすぐに巡ってくることでもなく、むしろ、何も返ってこないことのほうが多いでしょう。
それでも、そんなことを夢見て、日々を過ごすというのは、きっと、少しだけ、だけど、素敵ことだなと思いますから、僕も少しだけ変わった巡り、この価値観を、こんな、捨ててしまいたい世の中ですが、まだ期待できるかもと思えるのです。
ですが、これは「きれいごと」と言われれば、一言で片付けられて終わることですから、特に、共感をする必要もありません。これは、短い一片の描写を切り取った、短い、とても短い小説ですから。何も、何かして欲しいとか、そんなことも烏滸がましいと。
知っているだけです。楽しかった記憶。嬉しかった記憶。その瞬間、その時の気持ちを。