僕に必要な物は、ほとんどない。携帯電話、そう、スマホってやつで、それなりに新しいアプリが使えれば問題ない。それと、この文章を書くために必要なラップトップが1台。ほんの少し前までは、原稿用紙やペン、いや、もっと遡れば、筆になって。あとは、少々の本と、冬が苦手なので、暖かい何か着るもの。そんな物で十分だと思っている。
ただ、少しだけ気になるもの、思い出に関する物、そう、写真とか、過ぎ去ってしまう記憶は、だんだんと、良い思い出に変わるけれど、実際には、どれくらいの思い出が本当に良いものだろうか。皆は見返すだろうか、すぐに捨て去るのだろうか。あるいは、そのままだろうか。
まあ、それは人それぞれだから、どうだっていいのだけれど、きっと、その人が大切にしているものは、かけがいのない大切なものだから。それを、どうにか他人がこうやって、文章で言うものではない。いつか、記憶として、ふとした時に思い出す、言葉にするには難しい、けれど、何か、暖かい感情、それが、本当の意味で幸せだったりするものなんだと。
ここまでの生き方を、全部リセット。全て忘れて、新しい何か、そんなことを、心の中で期待をする人がいる。けれど、それは難しいかも知れない。全ては、線や、いや、もっと分かりやすい言い方をすれば、縁という繋がりが、無数に広がっている中に存在していて、それが人生なのだから。
そして、それらを、簡単に断ち切るのは難しくて、だから、簡単に繋がりがたい。いや、それは、第一印象とか、食事を共にして、価値観の共有とか、そういうのも繋がりと言えるだろう。けれど、本当に信頼というものが、それらを繰り返しながら積み重なる時間だとするなら、「今更、何を言おうが遅いんだよ。」そんなことを言われる人はどれくらい少なくなるだろう。僕は、やっぱり、いつも感じていた。
その人にとって、1番大事なモノを守るために、捨てられるのは、いつも2番目の繋がりで、それは、一部の糸が切れたからといって、なんら、大きい影響を与えることではなく。つまりは、今、このとき、持つべきモノが、取捨選択できるという時代に、多くの人が、無為か作為的なのか、真実は分からないまま途切れて消えていくのが人生である。
だからこそ、大切なことは、自分が持っているもので、誰かのために何かをすること。そんなこと、と思うかも知れないけれど、結局、明日を選ぶこと出来ない僕らは、誰が、どう思おうと、誰かのために、でも、もしも、そこに意味を見出すならば、他人のためだからとハッキリ言えるほどに、自分の意思で行動できるかどうかだと思うのです。
これほどまでに、何かと都合の良いように捨てられてきた僕でも、せめて、最後のさいご、誰かの役に立ちたいと思うことが、考えて選択できる自由であって、自分自身の人生なのだから、他人に左右されることがあっても、この道はもしかしたら、誰かが手を差し伸べてくれるかもしれない。そんな淡い、下心のような期待という、ちょっとした希望を見出せるのです。
もちろん、これは、あくまでも、僕が思っている1つの価値観。だから、誰かに合わせる必要なんてなくて、つまり、「自分らしく」という言葉でよくて、誰もが変えたいと思ってもいなくて、変えたくても、そんな力が残っていない人もいて。それを繋ぐモノがあって、だから小さな光に、繋がりという望みをもつのです。