少し、肌寒くなりました。この時期は、いつも人の生き方というか、感じかた、そんなの、僕が勝手に、そう思っているだけですが、軽く見渡すだけで、ただただ、少しだけ身をかがめて、下を向いて歩く人がいて、そう思えば、背をまっすぐに、肩を張り、自信に満ちた顔つきで颯爽と歩く。同じ時間を通り過ぎるているのに、随分と違う季節を歩んでいるのだなと。
ただ、それだけの事なのですが、けれど、この違いは、今を生きる人、とくに、何かの答えではないのですが、何かしら、思い思いの願う未来を見据えて、理由は分かるはずもなく、それでも、あまりにも随分と違うものだなと。これが、この時代を生きる人の数だけあるのかと思うと、社会の複雑さを知るわけです。
上を向けば、それは、どのような季節でも、すごく澄んだ青い空があって、下を見れば、地に根付いた雑草が、枯れていくような姿に、そして、次の年には、また同じく葉や茎を伸ばして。いや、何が言いたいのかというと、漠然とした日々の中で、何かのきっかけで、自分の存在や価値、考えていたことは、すごく簡単に吹き飛んでいくようで、けれど、根付いた場所は簡単に変えられなくて、それは、矛盾とは違って、果たして、自分の想いだけで変えることが出来るのかと。
人は、結局、自分で自分を縛って生きているのではないかと思ったりもして、それが、正しいとか間違っているとかではなく、そういうものなのかなって、思ったりもするのです。人は肩書きで生きますから、それだけで狭く見えてしまう世界は、すごくもったいないと。しかしながら、あまりに自由に物事が見えていても、それはそれで混乱してしまって、結局のところ、何をすればよいのか分からなくなる。
人生の半分くらいを、誰かのために使ってみると分かってくることがあるのですが、やはり、これは、雑草の息づかいとよく似ていて、根ごと抜くのはそこの持ち主でして、只々、根付いてまもり、育て、時を経て力強くなろうとも、自分は無力であることを知るのです。あなたは、何か、休むために座るベンチの脚のそばに生えた雑草を、気まぐれで抜いたりするでしょうか。いや、多少はいるかもしれないですが、ほとんどの方は、気にも留めないでしょう。
つまり、そういうことです。そこに生えている雑草は、人間の生活と一緒で、それがどんな日々なのか、知るはずもありません。だからと言って、無下に扱うことなど誰にもできないですし、逆に、知っていればこそ、なおさらのこと、そっとしておくことのほうが多いでしょう。そういうのを、優しさと思うのです。