満員電車。今日も普通に出社している。特に変わったこともない毎日である。強いて言えば、出来れば座りたいなと思うくらい。けれどこれが、普通の人生で平日の何でもない日々である。しかし、こんな生活があと何年続くのかと思えば、気が滅入るような感覚。そうして、うとうと寝ているか起きているか、分からなくなる感覚に陥ったかと思う頃に、気が付くといつものように会社に着いてしまうのだ。
通勤途中に見かける人影は、同じ景色のようで少しずつ変わる。同じようで実は少し変わっている。そんなことが垣間見える満員電車も、長く同じ場所にいれば分かったような気になる。そして、1日1日少しずつ歳を重ねていくことに憂鬱になりながら一日を迎える。
きっと明日も同じだろう、明後日も同じだろう。来月も、来年も。そんなことを思いつつ、眠る夜を幾つ越えただろうか。考えてみれば、それも数え切れないほどになったのだろうけれども、この繰り返しから抜け出せない自分に嫌気が差すこともよくあった。いつか何かが変わるんじゃないかという期待を持ちつつも、それは他人よがりの淡い期待ということにも気付いている。
そのような考えも、結局は同じことを繰り返す思考というより想像、虚像だらけの世界なのだからしょうがない。「もし奇跡が起きたなら」というのはエンタテイメントの世界。それはどんなものなんだろうと想像することはある。それが叶わない願いだと分かっていても、夢を見る事の自由には納得している。それでも、これは本当に些細なことなんだ。
例えば、今、こうして全く知らない目の前にいる人と会話をする時でさえ、その人は、自分の知らない世界をしっている人間かもしれない。いや、あるいは、自分と同じような日々を変わりなく、いや、変えないように生活しているだけかも知れない。ただそれだけのことなのに、「もしも自分が違う世界に行けたら」「別の人生を歩めたら」なんてことを考えたりする。
「でも、本当は何も変わらないんだ。」そんなことも分かっている。ただ、どうにも体を動かせない満員電車の中で、何か出来ること、そんなことといったら何にも影響なく、そんなことを考えるくらいしか出来ない。それが通勤電車、満員電車、往復、繰り返す毎日なのです。
知人の中には、それを認めたくないってことを、もう、ずっと前から言っていて、それを言い訳というか、現実逃避に近いのかもしれない。しかし、仕事が終わり暖簾をくぐれば理論整然と正しく言葉を引き立てて味を作る事ができる。会議の場ではなく、僕に言っているくらいだ。正しいと言うことと、誰が言っているかの違いに気付くのは人それぞれ。
社会に出れば、答えのない中で解決するような問題しかない。そんな中、自分で何とかしなければならないことでもあるのだから、そう簡単なものではないことに、誰もが嫌になる。つまり、解決をするよりも自分に影響しない方法を考え、選ぶということが1番解決しやすく近道であることを学ぶ。
誰だって、最初から何でも出来るわけではないのだから、努力して経験を積んでいくとか、気合、そういう類いの力業、あるい共依存的なことを活用したり、体よく言えば「ほうっておけない」という言葉や、共感、そんなことを重ねて覚えていく。けれど、「ようやく一人前になったな?」みたいなモノはすごく失礼で、誰もが苦労しながら生きているなかで本来、かける言葉ではない。
どれほどの強運で、それまでは上手くやってきたことでも、人生、仕事でも何でも、どこか、何かひとつ、上手くいかないことが起きるわけで、人生なんてモノはクルッと一変してしまうのが常でもあります。それで諦める人もいますけど、それはしょうがないことだと。本当にそれを憂うのであれば、最後まで一緒にやっていこうと。それがキッカケで、また、そこから這い上がる人もいるわけですから。
「おまえにもチャンスがある」、「若いのによくやっている」これは、基本的には信用ならない甘い言葉で、いつだって自分はそれに騙されてきました。口から簡単に出る言葉は、簡単で強力な言葉ほど、相手の行動として表れるものではありません。その人が思っているよりも、ずっとずっと何でも無いことなんです。だから、いつも、どこかで何かを間違えたまま。
そんな不安を抱えながら、今日も会社へ出勤をする。駅に向かう足取りはいつも重く、先ほどのような「実」を知れば、今日は更に重く感じます。でも、それも、僕が見てきた現実だからひとつの事実。だから僕は1度切りの人生をこれからどんな風に楽しむかを考えるようにしながら会社へ向かう。