眠れない日々が続き、3~4日もすると、自分が発した言葉など、当然に覚えてはいなくて、誰に、何かを言われた記憶も定かではなく、これではいかんと、分からず屋は、滋養強壮にと、円満な顔で差し入れを入れてきます。こんな滑稽なことも、日々、どこかで、誰にも知られず、起きている事でもあるのです。
「いやいや、もっとスゴイ話なら、いくらでもあるさ」そう思われる方々もいるでしょう。知ってます。でも、それを私は知るよしもないのですが。ここで言いたいのは、誰かにとって、乗り越えるべき壁のような出来事も、当人にとっては、とんでもない。そんな経験などしたくないと。当たり前に思っているということです。それにこれは小説ですから。
一度、終着点の場所を知ると、気付くことがありまして、眠るようにそっと、ですが、夢から覚めるとそれは散々でして、その後に起きることも、文章で書くには少し気が引けまして、なら、なんで、こんな文章を書くのかと。簡単です。眠れないような日々を自ら選び、何かを代償に掴めたとき。これは成功も、失敗も、自分であれば、納得できて腹に落ちるからなのです。
しかしながら、共にした方々は、同じ恩恵を受けられることは少ないことが多いでしょう。しかし、差し出す代償は、むしろ、もっと大きい気もします。これまで、たくさん見てきたのか、このフィクション上で語っている人物は、そんな光景をいくつも見てきたようですから。
まったく、どんな視点で書いているのか分からなくて読みにくいでしょう。けれど、またこれも、一節として書いておけば、とても小さいことです。こんなご時世ですから。基本的に1番可愛いのは自分です。分かります。けれど、一蓮托生には遠い。作り笑顔を見抜くには、上から見るよりも、下から見ないと分からないのですから。
すごく高いビルとか、飛行機の機窓から見える景色、すごくゴチャゴチャとしています。下に下りて、ゆっくりと上を見上げられる時間は、作っておいた方が良いと思うのです。星が見えないくらい、周りが明るければ、もう少し端っこへ移動して、もう一度見上げて、上を向いてみてください。その時に見える、自分だけの星空は、今、どこにいるのかを教えてくれます。
それだけでも、随分と違います。きっとそういう、自然を知り、何かを感じとることと、人を知ることは同じだと思うのです。