ふと、何の前触れもなく、思い出すことがありませんか?何となく入った小道。薄暗いようで、けれど、なにか冒険をしているようで、恐くもあり、ドキドキと、そんなこともあれば、そこはどこか、全く場所は分からないのですが、すごく楽しくて、見渡す限りが、何か、笑い声ばかりが聞こえて。いや、すこし疲れているのかも知れません。
でも、その日は、いつもの散歩道を歩いていたはずなのに、何故か、見たこともないような場所を歩いている。何か、ずっと考え事をしていて…。
そういえば、知っています?小説の意味や、価値観、在り方は、時代様々ではありますが、漢書によれば「何気ない、街中で取り交わされる会話」という解釈も出来る文献があるそうです。少し安心しました。好きに文章を書く事が、小説といっていいものか、言葉の意味も調べずに、気ままに書いたりしていたもので。
見たところ、文章の長さを区切る基準もないようで。だから、書きたいままに書いた文章が、誰かに読んでもらえて、何か感じてもらえることがあれば、それは、文章に価値を作る事ができたということなのだと。話が少しそれてしまいましたが、つまり、誰にとっても意味のない、ただの言葉の連続が、意味のある、面白い物語に変わる可能性は常にあると。
あくまでも、1つの考え方であって、これが正しいとか、違うとか、そういうものに関わる気はないのですが、最近思うんです。結局は、書き終わらないんですけれど、これまで過ごしてきた人生の、どこか、記憶の一片や、情景を切り取って、文章にする。それを何か、時代に合わせた形で残しておくことって、なんか素敵なことなのかも知れないと。
まぁ、書いている自分も感じるくらいに、綺麗事なのですが、それでも、自分の人生を、一見、自分以外には無価値と思える、思い出や記憶は、振り返ったりしてみて、この人生に、どんな意味があるんだろうと考え、今の自分を重ねて、少し文章を添えて、付け加えてあげるだけで、それは、小説であり、物語になると思うのです。
このご時世は、そんな風に書いた文章に、他人からの評価は全く関係なく、めぐり合って出会えば、勝手に価値があるのか、無価値かどうか、読まれた方が決めて、それで、お終いにできる。つまり、書きっぱなしができて、残せると言うことは、すごく貴重なことなんです。
それが、たとえ、誰にも読まれないとしても、自分が満足できればそれでいいのですから、これはこれで、とても幸せなことです。そもそも、自分の言葉を残すことが目的で、人に見せるために書いていない人だっているわけです。
それでも、たまたま自分の生きてきた道が、多くの人に共感され、そして、何か影響を与えるような言葉を紡いでいることもあって、それを「価値」というのであれば、それは、たとえ有名な書物や文献に、どう書かれていようとも、「時代は変わったのだ」と。それだけ言って、お終いと言うことです。